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2007.05.20(Sun)



 青葉の群れのなか、萬緑に立つ一人の男。
 千歳緑の着流しをまとい、涼を運ぶ風に瞳を閉じている。
 ああ、ここは靜かだ――。
 孝介はそう思う。喧騒とは無縁の、静謐に沈んだ場所。私有林であるからまず身も知れない輩は来ない。もし来るのであれば、それは持ち主である祖父か――。

「兄様。また此方でしたか」
「――ああ、また見つかってしまった」

 みづほ。孝介のたった一人の妹だった。白いブラウスに鴇色のスカート、手にはご丁寧にもパラソルを提げている。普段は着物だから、最近お気に入りの洋館にでも出掛けていたのだろう。兄さまもいかがと誘われたこともあったが、孝介はそもそも人混みが苦手であったし、最近虫食いのように侵食してくる異国の文化に嫌悪感を抱いていた。

 ――なぜこのままではいけないのだろう。

 これまでもそうしていたのだから、これからもそれでいいではないか、と思うのだ。変化を厭うのは貴様が臆病風に吹かれた戌だからさ。そう嗤う友人は逸早く和装を捨て、上から下まで洋装に変えた。元々舶来物を収集していた人物だった。

「みづほは、案外洋装が似合うな」

 本音だった。初めて洋装姿を見たときは違和感が拭えなかったが、見慣れるとそうでもない。ふわりと風を含んで揺れる装いは妹の雰囲気に合っていて、自然と馴染んでいる。
「ふふ、嬉しい。でも兄様もきっとお似合いよ」
 口元に手を当てて、軽やかに笑う。みづほの笑顔には花のような馨しさと聡明さがあった。こんなに出来た妹が、よくも自分に付いてきてくれるものだ。孝介は有難さと同時に妹を不憫に思った。

「そろそろ店に帰らなければいけないね。お祖父さんはご立腹だろうか」
「ええ、きっと。けれど今日は余りご様子が優れないみたい」
「……そうか」

 孝介の実家は呉服所だった。幕府や大名から用命を受け呉服を売る。けれど御一新以後年号が明治へと刷新された今、顧客は華族と名を変えたかつての大名や公家達であった。その華族も最近はこぞって外遊し、その姿を洋装へと改めている。畢竟、店への注文が減り経営が厳しくなった。未だ困窮を極めるとまではいかないが、時間の問題かもしれない。大人しく店を畳むか、客を庶民に広げ細々と続けていくか。もしくは――呉服を捨て洋装へと転換するか。
 人生五十年と言われるなか、八十手前まで生きた祖父は立派だ。だがもう、その生を全うする時が近い。帳簿も付けられなくなり、黒々と生気を宿していた瞳は青緑に澱んでいる。

「決めなければいけないか……」 

 両親は疾うに無い。孝介が十に満たない時分、倒幕派によって斬られた。そんな時代だった。瓦斯灯があちこちに立てられているが、それでも闇夜全てを照らし通せることは出来ないだろう。闇は漏れ人間の足元を這いずりまわる。時代の夜明けというが、明けきっておらぬ暁闇に血生臭い残り香が鼻を掠めることがあった。

「変化を恐れているわけではないけど、不安は拭えないな。少し前までは神国日本と奉り諸外国を夷狄と忌み嫌っていたのに、今はこれだ。この流れに乗っていいものやら……」

 大事なものを見落としているような気がする。孝介は、何がとも言い切れぬ不安を抱いていた。自分では慎重なのだと主張するが、人から見れば臆病だと言われるのも仕方がないのかもしれない。
 それにしても、と孝介は思う。
 人々は右に左にと向きを変えて、行く先を見失ってはしまわないのだろうか。足元を確かめず沼にどっぷり嵌って、その内身動きできなくなるのでは。杞憂に終わればそれでいが、終わらなければそれはこの国の明暗を分ける。

 黙考している兄にみづほは声を掛けない。それは二人が幼い頃からそうだった。共にお互いだけの兄妹、両親も早くに亡くしたのだから結束は強い。けれど孝介もみづほも必要以上に干渉することはしなかった。
 孝介が考えあぐねて顔を上げたところに、みづほはぽつりと雫を落とした。

「距離感、だと思います」
「距離感?」

 みづほはええ、と白く細い首を傾げた。孝介はその仕草に、妹は自分の湖面に波紋を投げかけたいのだと悟った。

「皆、自分の範囲というものを把握していないから、踊らされているのではないかしら」
「それは、時代に?」
「時代にも、自分以外の誰かにも」 

 白いブラウスに隠れた腕を近くの木肌に伸ばす。その時さぁっと潤みを含んだ風が吹いた。梢の掠れる音が響き、緑陰が形を変える。木々の隙間から差し込む光が揺れて、孝介とみづほの体のあちこちを照らした。

「例えば此処のように木が沢山あるとしますでしょう? それは、きちんとした間隔が――距離があるから大きく生長できると思うの。距離が無くて近過ぎると、お互いの枝同士がぶつかって耳障りな音もするし生長もできないじゃありませんか」

 だから、距離感は大事だと思うの――。みづほは口元を綻ばせ、それではね、と元来た道に爪先を向けた。林を抜けた所でパラソルを広げ、優美に歩き去っていく。
 全く、妹は木霊のようだ。孝介は嘆息をつく。存在感をぞんざいに発揮する時があると思えば、全く感じさせない時もある。 

 兄から見て、みづほは平衡感覚に長けているように思う。器用で要領が良くて、自由だ。家業もその状況も熟知しているのに洋装をし洋館に出向く。かと言って異国文化に浸かるわけでもなく、普段はこれまで通り和装だし言葉遣いも態度も変わらない。

 孝介が重圧から逃げるようにしてこの林に来ても、様子見には来るが帰りを強要することはしない。同じく、洋装をすることも洋館に行くことも、一回断るとそれ以上しつこく言わなかった。その彼女は確かに、距離感を弁えているのだろう。だがそれは、己を知ることと同義である。己を知らなければ、己の立ち位置を定めなければ、出来ない芸当だ。

「距離感――か」
 
 孝介は呟いて、前を向く。薫風に身を任せながらもその場に立ち続ける木々は、思えばずっと自分にそれを示し続けていたのかもしれない。自分と店、店と世情。強いては日本と異国。共倒れだけはご免だな、と思い孝介はみづほの辿った道を踏んだ。
 樹陰の届かぬ場所に出ると、孝介は夏へと向かう陽射しに目を細めた。袖笠を掲げ仰向くと、そこには暁よりも尚濃く鮮やかな藍が広がっている。浮かぶ雲の白さを眩しく感じながら、孝介は自らの歩む道を決めた。
 









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2007.04.30(Mon)



 海の近くに咲いていた桜は強く吹く潮風に早くも葉桜となり、海岸沿いの道路に満開の名残を落としていた。鉛色を侵食する白い花びらも、やがてどこかに姿を消すだろう。その頃には私の着ている服も一枚薄くなっているかもしれない。首に巻いたストールが風に遊ばれるのを感じながら、私は大学へ向かった。

 今日はゼミがある。20名の少人数クラスでそれなりに仲もいい。日本全国津々浦々、色んなところから集まってきているから方言も飛び交っていて飽きない。教室に入ると、あちこちからおはよう、と明るく声がかかる。それに応えながらいつもと同じ席に座った。すると後ろから肩をたたかれ、
「よう。今日も眠そうやん。バイト疲れ?」
「ううん、昨日はバイト休みだったし。てかそっちこそ眠そうだよ」
 くるん、とかるくウェーブのかかった髪を掻きながら光基(こうき)はああ、と言い、
「寮の連中と飲みやったから。あ、酒臭くない? まだ少し残ってる気ぃする」
 はぁー、と口元に手を当てて、酒気が残っているか確認する。別にお酒の匂いはしなかった。ちらりと同じ寮生の兼子くんを見てみると、彼は机に突っ伏して他のゼミ生にからかわれていた。彼のお酒の強さはゼミコンで目の当たりにしたから(最初から生中を注文し、日本酒、焼酎と飲み続けていた)、ちょっと信じられない。どれだけ飲んだんだろう。
「今日多分何人か休んでるで。朝潰れとった奴らは置いてきたしな」
「……どんだけ飲んだの」
「まぁそこは推して知るべし、やな。やっと手に入れたゆず焼酎が旨くって瓶空けてもうたからなぁ。あ、今度また買ぅた時は紗希も一緒飲もうな」
「あたし泡盛の方が好き」
「出たのんべぇ発言!」
 あはははと二人で笑っていると、何なに、と他のゼミ生が集まってくる。春の陽だまりの中で見る蝶のように、私たちはひらひらといくつもの話題の上で舞っていった。


 ゼミが終わり次の講義を受けに教室を出ると、光基と兼子くんが逆方向に向かうのが見えた。次の講義は必修のはずだけどな、と声をかける。すると光基が苦笑いを浮かべて、
「コイツがしんどい言うから。サボりサボり」
 見ると兼子くんが辛そうにうなずく。一刻も早く布団で寝てしまいたい、というオーラを出していた。それがやけに哀れを誘って、持っていたペットボトルを差し出す。
「水。ちょっと飲んじゃってるけど」
 兼子くんは緩慢な動きで私を見て、逡巡してからありがたく、と受け取ってごくごく飲みだした。上下する喉仏にちょっと見惚れていると、授業の開始を告げる予鈴が響く。
「紗希、授業始まったで。行かんでええの?」
「あー、うん、そうだねぇ」
 必修科目だけど、出席確認しないしな。そう考えてからサボることに決めた。
「今日は自主休講にする」
「便利な言葉やなぁ。ほんなら一緒に学習室にでも行く?」
「そだね」
 学習室は図書館内にあって、学生証を持っていて三人以上いれば誰でも使える。本当は話し合いや調べものをする時に使う部屋だけど、個室になっているから空きコマの時に休憩室として使うことが多かった。まぁ、個室とは言えドアの上半分はガラスだけど。

 学習室は長机と、それを挟むようにして椅子が三脚ずつ並んでいるだけの殺風景な部屋だ。兼子くんはその椅子のうち片側三脚を並べて寝そべってしまったから、私と光基はもう片側の椅子に腰掛ける。
「兼子くん。どんだけ飲んだの?」
「……たくさん」
 それは分かる。兼子くんは普段からこんな風に寡黙だけど、今日は二日酔いも手伝って更にひどい気がする。ただいい具合に掠れた声がちょっと、いい。
「たくさんて?」
「……いっぱい」
 言葉を引き出したくて尋ねてみたけど無理のようだ。とりあえず寝させよう、とこれ以上兼子くんには話しかけないことにした。けれどこのやり取りを見ていた光基が笑って、
「コイツ今病んでんねん。ほんでこれ。馬鹿やろ?」
「……うっさい」
 黙れ、と凄んでみても全く効果はない。まぁとりあえず、兼子くんは悩むようなことがあってヤケ酒したってことは分かった。その当人はあーとかうーとか意味を成さない言葉を発しながら上半身を起こし、ペットボトルを傾けている。その右手薬指には光るものが。
「なに、彼女のことで?」
 興味本位で訊いてしまってから後悔した。これで当たりだったらフォローが難しい。あたしの馬鹿! なんて内心思っていると、兼子くんが違うときっぱり否定してきた。光基もコイツんとこ仲ええからまだ別れるような心配ないわ、と笑っている。なんか、それはそれでちょっと面白くないような。
「じゃあ何?」
「うーん。簡単に言うと進路、やろな。な?」
 話を振ると兼子くんは少し首をかしげて、多分、と答える。それからまた水を一口飲み、机に片肘をついた。どうやら話してくれるらしい。
「……俺、いま企業就職考えてんだけど」
「うん」
「それって、妥協に妥協を重ねて決めた進路みたいな気がして……。やりたくないことから逃げた結果だよな、って」
「コイツ真面目やから。そんなん思ったかてしゃあないやん」
 光基はそう言うと犬猫を追いやるような仕草をした。兼子くんから漂ってくる重い空気を散らしたかったのかもしれない。私はと言えば、掠れていた声が普段通りのものになってしまったことを残念がりつつも、少し驚いていた。      
「それ、あたしも丁度考えてた。それで折角のバイト休み無駄にしちゃったし」
 ヘぇ、と二人がもの珍しそうにこちらを見てくる。
「あたしの場合はさ、教職になりたくってこの大学入ったんだけど。でも、履修とかすごく複雑だったし何かと制限あったじゃない? まぁ、広く勉強するうちに他にやりたい事が出てきたってのもあるんだけど、それで結局断念しちゃって。今は児童系の施設目指してるんだ」
「……俺も似たような感じだけど。何かさ、自分が情けなく思わない?」
 確かに、私は妥協したのかもしれない。他にやりたい事と言っても、楽な方を選んだことには違いないのだから。
「そりゃ情けないとも思ったし自己嫌悪にも陥ったよ。あたしこんなんでいいの、って」
 隣で光基が感心したような息を漏らした。彼はこういうことは考えないんだろうか。考えたとしてもま、いっか、の一言で全部片付ける気はするけど。少し羨ましく思いながら、兼子くんに再度向き合う。
「……でも、どっかの施設でも企業でも公務員でも、自分の『やりたいこと』を根本に持ってればいいんじゃないかなぁ、ってさ。職種は違っててもそれさえ揺るがなきゃいいんじゃない、って吹っ切った」
 根っこが同じなら咲く花も似るはずだ! と考えることに疲れた頭で言い切って、そのまま寝てしまった。一晩経って考えてみると私も大概いい加減だ。兼子くんは眉間にしわを寄せて、どこか複雑そうな表情をしている。
「ほれ見ぃ、紗希のこの単純明快な答え。お前は何でも考えすぎや」
「俺もちょっと、自分が馬鹿だったと思った……」
 その言い方は、遠まわしに私のことを考えなしだと言いたいのだろうか。釈然としないものを感じながら、何となくドアの方を見やる。丁度ビニール袋をぶら下げた学生が歩いていった。そういえばお腹すいたかも、と思うと途端甘いものが食べたくなるから不思議だ。そういえば売店で和菓子フェアやってたっけ。それを言うと、
「おっ、じゃあ兼子の快気祝いやるか?」
「あたし『さくらいちばん』飲みたいなー、兼子くんの奢りで」
「何で俺……」
 しかもまた飲みかよ、という声は黙殺して席を立つ。三人連れ立って学習室を後にした。兼子くんはどうやら酒気が抜けてきたようで、さっきよりも足元がしっかりしている。
 図書館を出ると予想外に強い風が首のストールを吹き上げて、その鮮やかな新緑色を視界いっぱいにはためかせた。慌てる私を見て光基と兼子くんが笑う。いつもだったら怒るとこだけど、何となくおかしくって私も一緒に声を上げて笑った。



 ひらひらと色とりどりの花に囲まれて舞う蝶も、必ず蜜を吸う花を決めて羽をたたむ。私たちだってそうだ。いつまでも春の陽気に浮かれてなんかいられない。希望を感じさせる光は、冬になるにつれてその温かみを失うことを知っている。
 けれど、惑いながら決めた道を行くことに意味があるのだということもまた、私たちは知っている。だから後、もう少しだけ。
 この春を感じながら、まどろませて。












※ この作品は競作小説企画「春祭り」に寄稿させて貰っています。 



        




2006.12.12(Tue)



「ああ蝶々雲だ」
 二歩先を行く友人が紫煙をくゆらせて言った。
 ちょうちょうぐも。顎がステップ地形の三十男がまた可愛い単語を使うもんだ。そう失笑気味で友人の後頭部を見ていると、またぽつりと言葉を漏らした。
「冬だな。明日は雨だ」
「その言い方だと冬イコール雨だと勘違いされる」
 思わず意見を述べると、友人はいま俺の存在に気づいたかのような表情で、
「蝶々雲についてどっちとも言ってるんだろう。脈絡がちゃんとあるじゃないか」
「よく分からん」
 というかどうでも良い。手に持っていた缶コーヒーを首筋に当て、暖を取ろうとすると低温火傷、と単語だけ呟かれた。うるさい。
 休日の昼下がり、煙草を買いにぶらぶらと歩いていたら、同じくふらふら歩いていた友人と久しぶりに会った。多分、1年とかそれくらいぶりに。友人が自分の進む方角にあるバス停まで行くのだと言ったから、何とはなしに一緒に歩いている。だが、この友人がなかなか面倒な男だという事を失念していた。
「蝶々雲はこの季節に見られる雲で、雨の前兆なんだ」
 と、友人はまた空に視線を戻す。景気の悪い空だ。冬の空なんて晴れてても夏のそれに比べて暗いもんだが、今日のは特にひどい。確かに、雨が降ってきそうな気配がする。
「それにしてもお前、蝶々って」
 首筋が熱くなってきたのを機に缶を開ける。その間にからかいの声を掛けた。
「見えないだろ。お前は表現力がない」
 ぐい、とコーヒーを流し込む。温かさが全身に広がるようだ。
「じゃあお前は想像力がない。つまり夢がない。希望がない。よって将来がない」
「そこまで言うか」
 その不躾さに半ば呆れて友人の顔を凝視してしまった。当の本人は無関心を装い、枯れた落ち葉色の眼を細めて煙草を吸っている。
「お前にはあの雲、何に見える?」
 あのと指示語を使ってるが、友人は雲ではなく遠くの子どもを見ていた。ここらへんは住宅街だし公園もあるから、子どもらが遊んでいても別におかしくはない。
「さあ。雲は雲だろ」
 素っ気無く答えると、友人はだからだよ、と煙を細く長く吐き出した。
「お前は最初から考えようとしない。放棄してる。探究心がない。だから反省しない」
 これも友人の頭の中では繋がっているんだろうが、俺には前後の脈絡が分からなかった。
「お前、嫁さんと別れたろ」
 ……この脈絡も分からない。しかもこいつは何でこう直球なんだ。
「親権は向こう。ネグレクト。無関心も子どもには罪だ。子育ては母親の仕事、だなんて時代遅れだぞ」
「――独り身のお前に言われたくないな」 
 煙草吸わせろ、と友人のポケットを指差す。友人は眉をしかめたが、箱とライターを投げてよこした。赤のマルボロとどこでも見かける百円ライター。
「家庭のために馬車馬のように働いて、それこそ休日出勤までして、それが何で育児放棄なんだよ。報われなさ過ぎだろ」
「嘘つけよ。逃げてたんだろ」
 箱に入っていた最後の一本。火をつけようとしていた手が止まる。
「昔からお前には家庭の臭いがしなかったけどな、今も全然変わらない」
 苛々して上手く煙草に火がつかない。お前に何が分かる。
「確かに感じ方や見え方なんて人それぞれだ。時代によっても違う。けどな、嫁さんの言葉や子どもの行動を無視し続けて、仕事としか向き合わなかったお前に非があるのは確かだろ? 認めて、改めろよ。反省しろ」
 一方的にそう言い放つと、友人は煙草を落として靴で踏み潰した。踏みにじられる煙草はどこか俺と被って苛立ちを覚える。こいつ、昔より面倒な男になってやしないか。
「大体何でお前が知ってんだよ。面識ないだろ」
 元、妻と。もちろん子どもとも。すると友人は、守秘義務なんて無いのと同じだからと曖昧な答えを寄越してきた。苛々する。そんな俺の様子に気づかない男でもないのに、素知らぬふりで友人はまた空を見ていた。蝶々雲と呼んでいた雲はいつの間にかその姿を消し、布切れのような雲がだらしなく伸びている。
「雲は白。お前はきっと疑いもせずにそう信じ込んでるんだろうな」
 それは俺を聞き手の対象としない、独り言のようだった。このズレがより一層俺との距離を広くしていることに果たして気付いているかどうか。まあいい。あと二十歩と歩かない内に道は分かれ、友人はバス停がある左に曲がる。そうなればこの不愉快で不可解な時間ともおさらばだ。
 俺たちは無言で歩いた。前を歩く友人の表情は分からなかったが、何か考え事をしているようではあった。道が分かれ、じゃあ、と道の左端に寄っていた友人を追い越し真っ直ぐ進む。が、一息つきかけたところで思いがけず背中から声が掛かった。
「嫁さんや子どもが流した涙の色は、本当に透明だったか?」
 最後にそれか。俺は間髪入れず答えた。
「涙は透明なもんだ」
「見てないお前に断言なんてできる筈がない」
 それは文字通り捨て台詞だった。振り返ると友人は曲がった後で、服の端だけが角に吸い込まれていった。
 何て奴だ。そう思ってふとまだ自分がライターを握っていることに気付く。自販機で煙草を買い、帰りの道すがら捨ててしまえばいいかと考えた時だった。
「そういえば」
 元、妻がどこそこに行った時の相談員が、俺のことを知っている人だった、と言っていたことを思い出した。机の上にライターが山ほどあって、コレクション化していた、と。もしかしたらこのライターもそのコレクションから持ち出されたものだったのかもしれない。涙の色。友人は何が言いたかったのだろう。
 見上げた空には、墨で書いたような雲が忌々しそうに俺を見下ろしていた。
 














2006.05.28(Sun)




 雨よ、お前に語りかけてもいいかい?

 
 うるんだ空気に地を打つ雨音。空は色を奪われて、灰色というよりも白に近かった。道行く人々は突然降りだした雨から逃げるように、駆け足で僕の横をすり抜けていく。――ああ、帰らないと。濡れてしまう。そう常識的に思ったのだけど、僕の足は意に反してぴくりとも動かなかった。その代わり、のろのろと緩慢な動きで手のひらを天に向けて雨を受け止める。冷たいとも心地よいとも思わなかった。ただ、こいつはどういう気持ちで降ってくるんだろうと、……そう、思った。


「本当に愛してくれてた?」
 僕はその言葉に呆然と立ち尽くす。それはちょっとした口論のあと、冗談のつもりで言った別れようか、に対する彼女の言葉だった。日常茶飯事のいさかいレベルで、僕たちの関係を終わりに導くものではなかったはずだ。僕が笑いながらじゃあ別れようかと言い、彼女がまたそんな事言って、と怒るいつもの。
「……たとえ愛してくれてたとしても、わたしには物足りなかった」
 鋭い言葉は僕の胸に氷のような冷たさをもって噛み付いた。血が出てもおかしくないほどの痛みが一瞬にして僕を襲い、身じろぎもできないほどに凍らせた。
「あなたなりに、もっと人を愛するべきだわ」
 さようなら、と告げる声はもの悲しげに揺れていたけど、ぴんと張りつめた怒りが含まれていた。

 
 ――どうして。
 濡れた前髪がひたいに貼りついて、しずくが頬を伝い落ちていく。首を流れるひやっとした感触に寒気を覚えて、手を添えた。意味も無くそのまま揉みほぐす。首――彼女の、首から背中にかけてのラインが好きだった。髪に隠れるのをいいことに、いつもそこに痕を残した。だけどもう、出来なくなったんだ。そんな、星雲状のまとまりのない思考だけがいたずらに流れていく。
 ――愛してくれてた、なんて。
 どうして聞いたんだろう。そんなの愛してたに決まってる。彼女を愛してなかったのだとしたら、他に誰を愛したって言うんだ。言葉で表したことは少なかったけど、態度でいつも表してたじゃないか。執着を持たない相手だったら痕だって残さない。なのに、どうして。首から頭へ手を移して、濡れそぼった髪をかきあげる。その拍子にまたしずくが流れ落ち、まばたきによって涙のような軌跡をえがいて消えていった。
 耳を打つ雨音は幾らかその強さを潜めたけど、僕の気力を奪うには十分だった。別れようかなんて、軽々しく口に出すんじゃなかった。いつものように怒った素振りを見せて、聞き流してくれると期待するんじゃなかった。大体どうして、彼女は何をしても別れないと根拠も無い自信を抱いていたんだろう。それに、どうして彼女が愛されてないと思い込んでいることに気づけなかったのだろう。どうして。どうしてどうしてどうして。後悔で押しつぶされそうだ。
 雨が、涙のように降ってくる。全身で受け止めながら僕は天を仰ぎまぶたを閉じた。これが涙なのだとしたら、誰の涙なのだろう。ひたいに、鼻に、頬に次々と落ちてくる。まぶたに小さな衝撃を感じて、目を開けた。――誰かの涙だとしたら、僕の涙なのだろうか。それとも彼女の? そういえば彼女は泣いているのだろうか。泣いていて欲しいと、そう願う僕はやっぱり身勝手だったのだろうか。
 


 雨よ、お前に語りかけてもいいかい?
 彼女を愛せずに、他に誰を愛せるというのだろう……。
 

















2005.03.04(Fri)



 閉じた目蓋の裏側に見えるのは溶け落ちる夕方の朱。
 開いたその瞳に映るのは横を向いた君の色のない唇。
(……湿っぽいな)
 この世界も僕たちの間を吹き抜ける風も。
 僕たちはこうして黙って、一体いくつの宝物を失っていくのだろう。思い出しては捨てて、掘り起こしては投げる。
(いつまで続くんだろう)
 いやに現実味がない。時間と時間の隙間に迷い込んだ子猫のように、じっとうずくまったまま耳だけ側立てている。
 終わりたいのだろうか。終わらせたいのだろうか。この時間を、この関係を? 無性に、僕の方を向こうとしない彼女の笑い声が聞きたくなった。 
 
 何にでも一生懸命で、何にでもすぐ泣いてしまう君は、一緒に観たあの映画を覚えているだろうか。暗い僕の部屋で、二人並んで肩を寄せ合って。
 内容よりも美しい女優にばかり目がいく僕を、君は軽く叩いたね。まなじりに涙をためて真剣に見入っていた君は、僕のそんな態度を不謹慎だと怒って。
 だけど、それは本意じゃなかったろう? 僕は君の嫉妬に気付いていたよ。君がどんな反応を返してくれるのか知りたくて、わざとやったんだ。もしかしたら君も、そんな僕の思惑に気付いていたのかもしれないけれど。
 僕たちはいくつもの嘘を地層のようにつみ重ねて、その中から化石のような真実をさぐりあっていた。硬くてそれでいてもろい、寂しい真実を。

 声も発さず、色の無くなった君はまるで透明になったかのように風景と同化していく。受け止めることを放棄した意志と体は、きっと涙一粒よりもはかないのだろう。
 ――寒い。冷気を吸い込んで、鼻の奥がつんと痛くなる。涙がじわりと目の縁に溜まっていくのを感じて、零れないようにと空を仰いだ。
 そのまま力無くはなった溜息が白く溶けていく。いつもと違った角度の世界は、僕の心さえも吸い取ってしまうほど広い。頬をかすめる風も、むきだしの手を掴もうとする空気も、この僕たちのこともどこか遠く感じるほどに。
(このまま夢物語にしてしまえればいいのに)
 ベッドサイドに置いた植物が朝日に喜びを感じるように、まどろみの中を泳ぐことが出来ればどんなにいいだろう。
 もう一度息を吐く。頭の芯がじんと痛んで現実に立ち帰った。彼女を見ると、真っ直ぐにこちらに視線を合わせている。今にも泣きそうな顔に、あの時の幸福は感じられなかった。
 ただ僕からの言葉をじっと待っている。卑怯だとは思うけど、責めることも出来ないのはその気持ちが分かるからか。それとも非をこの胸のどこかに感じているか。
(何て、もろい)
 僕たちの間に横たわるこの静寂な時間を壊すのも、僕たちの間に寝そべっていた春の日だまりのような関係を切るのも、たった一言で済んでしまう。
 いくつもの枝分かれした大木が一つの幹に収束されていくように、僕たちが語った言葉たちもまた、一つの言葉に導かれるようにして辿り着いてしまう。  
 口を開いた。顎がふるえて、上手く言えそうにない。寒さのせいにして一度両手を口に添える。言いたい。言いたくない。終わらせたくない。終わらせたい。相反する思考がマーブル模様を描くように浮かんでくる。
 ああだけど――もうこれしかない。 
 
 僕たちに残された、すべての言葉は。















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